幽霊と大厳和上

教専寺第10世住職の大厳和上の150回忌の法要を平成18年にお勤めしました

学僧大厳

大厳 1791年~1856年(寛政3年~安政3年)
仏教学者、字は僧具(そうぐ)、名は硯州(けんしゅう)
益田市高津町、当時の庄屋宮内恒助氏の二男として生まれ、幼い頃より益田市高津町教西寺第4世住職、義蘊(ぎおん)師の義子として教育を受けられました。
18歳の頃、履善(りぜん)の門に入り宗学を学び、仏典や漢籍について深く研究されました。
宗学のかたわら儒教をも学び、特に易経に精通され、萩城下で論語や易経の講義をされたときには城中の人が聞きに来たので、藩校明倫館は講義を中断せざるを得なかったと言われています。

大厳師と交友であった吉田松陰の『吉日録』に、其の人となりを推称し、その博学を讃えています。
松陰の母、杉タキさんは何度も大厳師より法を聞いておられたことから、30歳で生涯を終えた松陰には大厳師の薫陶を受けられた母の念仏の血潮が流れていたことであろうと推測されます。
履善門下生として宗学の研鑽を究めた大厳師は多くの著述や書写、詩文を遺されました。著書の一部は『真宗全書』に収録されています。
後に山口県江崎の教専寺第10世住職となり、安政3年9月13日、享年66にして入寂されました。
晩年の大厳師は隠居所へ籠もり、不遇であったと伝えられていますが近隣諸国からの学徒の育成は続けられていたようです。

墓で生まれた大厳さん

大厳師の出生と出家にまつわるこの様な伝説があります。

時は寛政3年、師の母親宮内恒助の妻が身籠もったまま亡くなったので海岸の墓地に埋葬した。
ところがその数日後の夜中に町の飴屋の戸をたたく若い女が現れた。
飴屋の主人は不審に思ったものの、見れば身なりは端正で色香もにおう。黙って飴を受け取ると消え入るように立ち去った。その女はそれから毎晩飴を求めて現れるようになった。
よく見るとその女は先頃亡くなった宮内家の妻女に似ている。
怪しんだ主人は意を決して立ち去る女の後をつけた。村はずれにあるものさみしい海辺の墓地に入るとふっと姿を消した。真っ暗な闇の中、どこからか赤子の泣く声が・・・
声のありかをたどるとそこは先日宮内家の妻女を葬った墓。大騒ぎになり、宮内家に伝えられ、翌日に墓が掘りあげられた。
棺の中では妻の死体が生まれて間もないとおぼしき嬰児を胸にしっかりと抱きしめていた。
嬰児を抱き取り、「この子は大事に育てるから安心せよ」と告げると死体はそれまで起こしていた首をこっくりとうなだれた。母親の死後7日目のことであった。

このような出生のいきさつからこの子は寺に預けて僧侶にしてもらおうということになり、宮内家の旦那寺である教西寺で養育され後に出家したこの子供が「父母は我が身を助けた仏菩薩なり」との言葉を残した大厳師であると伝えられています。
もちろんこの話はそのまま信じることは出来ませんが尋常な出生ではなかったと想像できます。

※写真 教専寺の門前には大厳さんの出生の伝説に由来した飴、【飴女房】(210円)を製造販売している山根屋があります。

大悲召喚の声

大厳師は詩文に堪能で、その詠詩の中でも最も後世まで人々に知られているものに有名な詩があります。

罔極仏恩報謝情 (罔極の仏恩報謝の情)
清晨幽夜但称名 (清晨幽夜ただ称名)
堪歓吾唱雖吾聴 (歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども)
此是大悲招喚声 (これはこれ大悲招喚の声)

罔極(もうきょく)の仏恩とは極まりない仏恩のことです。
仏の絶対の慈悲の鏡に照らされたとき、我執の固まりである自己の姿が知らされ、仏の鏡に照らされることは法を聞くことであり、仏の親心を聞くことであります。
言い換えれば南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞くことであります。
すくわれざる者がすくわれた喜びに感ずる恩の生活こそが倫理道徳でも味わうことの出来ない無我の奉仕、報恩感謝の気持ちであります。ここに極まりなき仏恩に対しての報恩の情が必然的にわいてくるのです。
清晨幽夜但称名 とは清らかな朝より静かな夜更けまで、いわゆる昼はひねもす夜はよもすがら、ただ御恩の念仏三昧です。
博多の七里和上が『念仏に身をはめよ』と、伊勢の村田和上が『念仏より外に望みがあろうとは』と言われた境地がこの味わいでありましょう。
堪歓吾唱雖吾聴 此是大悲招喚声 とは広大な仏のお慈悲に感泣し、よろこびが身にあふれ、自らお念仏が口からほとばしり出て下さるのです。
そのお念仏は自分の口で称えるのを自分が聞いているのでありますが、それがそのまま如来の呼び声であるとよろこばれたのです。

原口針水師と大厳和上

大厳師はいつも大きな声でお念仏を称えられていました。時には周囲を驚かせるほどだったと言います。
そのことから称名を称えることを正因とする『称名正因』(浄土真宗の教えは『信心正因 称名報恩』です)との疑いをいを掛けられ、異安心だと本山に訴えられました。
本山からその調査に原口針水和上(熊本出身 1807~1893)が派遣されましたが、これに対して大厳師が大悲招喚の詩で胸中を吐露されました。

罔極仏恩報謝情 清晨幽夜但称名 堪歓吾唱雖吾聴 此是大悲招喚声 
【極まりなき佛恩に対する報謝の情けなれば、未明であれ真夜中であれ、ただただお念仏を称えさせていただくばかりである。これ以上の慶びがあろうか。私が称えて私が聞いているようではあれど、実は是れは是れ、弥陀大悲の招き喚ばれるみ声である】

原口針水和上はこの漢詩に応えて次の詩を唱和されました。

我れ称へ 
我れ聞くなれど 
南無阿弥陀 
我をたすくる
弥陀の勅命

原口和上は大厳師の漢詩を要約した上に、善導大師の「二河譬」に説く釈迦の発遣《汝その道をゆけ》と弥陀の招喚《汝一心正念にして直ちに来たれ》から、二尊による他力念仏の味わいを加えられ、親鸞聖人の示された「本願招喚之勅命」という念仏のお心を詠まれたのです。
もちろん疑いは晴れ、原口和上は大厳師の安心(あんじん)の相違ないことをよろこび、正当なる真宗念仏者として大いに評価をされたそうです。
原口針水和上と大厳師の面会の伝承はこの事件でよく知られています。

キツネと話した大厳さん

今は残っていない隠居所
今は残っていない隠居所

天保12年(1841年)の火事で寺が全焼し、その火災の責任を取るかたちで翌年退職され隠居されました。
火事が起きたり門徒に死者が出た時に師はその知らせの前に知っていたと言われています。
大厳師の籠られた隠居所へは裏の山から夜な夜なキツネやタヌキがお聴聞に来てその際に町内の出来事や火事や死者が起きたり出たりすることなどを師に知らせたと言います。
このことは境内にキツネやタヌキが出入りしていたことから土地の人々は『狐狸(こり)のお告げ』とうわさしていました。
大厳師にまつわる逸話は前田慧雲博士の『学苑談叢』の中に遺されています。
現在、キツネが通ったと言われる圓光寺山は国道191号線が大きく山をえぐり取って貫通しています。
大厳師の隠居所も取り壊され、師が門弟と共に木石を拾い集めて築いたと言われる庭園のごく一部が残るのみとなりました。「心字池」は辛うじて残存しています。
師の徳化と教化によって断行された仏事禁酒の慣行も絶えて久しく、今となっては当時の美談として語られるに過ぎません。